蓮華寺について

蓮華寺は、615年(推古天皇23年)に聖徳太子の叡願を拝し、憲崇律師によって創建され、寺名を法隆寺と号した。

1276年(建治2年)に雷火によって伽藍を消失。

1284年(弘安7年)当時の地頭で鎌刃城主土肥元頼が、浄土宗第三祖の良忠上人の弟子である一向上人を招いて寺を再建し、
八葉山蓮華寺と号した。蓮華寺は良忠の鎌倉における自坊の旧名である。

以来、一向派の法統を継承し、後に大本山として多くの末寺を擁した。

一向上人はこの地で弘安10年(1278)11月18日立ちながら入寂し、裏山に荼毘地跡の杉と墓所がある。

1333年(元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇の綸旨を受けた足利尊氏等に攻められた六波羅探題北方の北条仲時が、
北朝の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を伴い東国へ落ち伸びる途中、行く手を佐々木道誉に塞がれたため、
やむなく蓮華寺へ至り、天皇と上皇の玉輩を蓮華寺に置いた後に、本堂前で一族郎党432名と伴に自刃した。
その際に血が川の様になって流れたと伝わる。時の住持の同阿上人が彼らを憐れみ法名を与え、過去帳に登載したのが有名な『陸波羅南北過去帳』である。
寺内にあるその主従の墓とされる一石五輪塔群は寺地であった塔頭勧信院にあったもので、東名高速工事に伴い、昭和30年代に境内に移設されたものである。
また、向かいの六波羅山とよばれるところの頂上にも一つ五輪塔があるが近世になって勧信院から移設されたものである。

その後、一向と同じ念仏勧進聖の一遍の時衆と同一視されるにおよび、江戸時代に当寺は、時宗十二派に属する時宗一向派の大本山と位置づけられ近世を経る。

時宗からの独立運動の結果、1943年になり浄土宗に蓮華寺以下57末寺とともに帰入した。浄土宗七大本山に次ぐ格式として特別寺格「本山」である。

長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公で番場出身の博徒である番場の忠太郎地蔵がある。

斎藤茂吉は、恩師佐原窿応が当寺49世住職になったことから、参詣して短歌を残している。

一向上人について

一向上人は築後国(福岡県)の地方豪族であった草野永泰の第二子として歴仁二年(一二三九)正月、筑後国竹野庄西好田の地に生まれる。

この地は久留米市ではなく、久留米市の隣の田主丸町であった。草野庄は久留米市、竹野庄は田主丸町である。ただし、平成一七年(二○○五)に田主丸町は
久留米市に合併している。

永泰の兄永平は浄土宗の第二祖である聖光上人に帰依し、建久三年(一一九二)造営なったと言われる浄土宗大本山久留米善導寺を建立を発願した開基大檀那と善導寺に伝承されている。

その後、寛元三年(一二四五)に播磨国の書写山円教寺に入り、天台教学を修めることとなり、建長五年(一二五三)に剃髪受戒して、名を俊聖と改めて、それ以来この山で、天台の教えに基づき精進した。

しかし、生死からの解脱の困難さを悟り、翌年夏には、山を下りて、南都に赴いた。南都でも諸所の師を尋ねたが、解脱の法は見出せなかった。そんな時期に、
安楽集の文により、浄土門に帰入し、浄土宗第三祖の良忠上人の弟子となる。そこで約十五年浄土の行学を修められた。

そして、文化十年(一二七三)から諸国を遊行し、踊躍念佛を広め、諸国に道場を作った。弘安一○年(一二七八)十一月十八日番場蓮華寺にて立ちながら亡くなったと伝えられている。

戻る